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目標設定する前に自覚することで達成が自動化する理由

人生とは習慣の集大成って本当の話ですか?

今の自分のこれまでの人生は自分が意図的に習慣形成し作ってきたんだ!
そう声を大にし胸はって言える人は、ごくごく限られた人だけではないでしょうか

あなた自身を映し出す鏡を最後にみたのはいつですか

私は出かける前に鏡をみて身だしなみをチェックすることがあります。

特にどっかの時点で意識的に始めたわけではありません
どうやら私は鏡をみた時に、ヒゲが伸びていればシェービングをし
歯間に異物が混入していないかを確認するそんな習慣がいつの間にかできてた様です。

他にも暗い夜道の車窓に映った自分の顔を見た時に
気づくと自分の髪の毛を触っていたことがあります。

なぜ私はこの様な行動をとったのでしょうか

習慣だと言ってしまえばそれまでのことですが
この習慣が形成されるまでの間にはいくつかのドラマがあったはずだと

トラウマ的な何かがあったのか?と振り返ってもみましたが
特に何か恥ずかしい思いをしたなどの苦い思い出はありません。

どちらかといえば、「カッコよくいたい」という考えが強かったです。

なので

歯にノリがついているのはおかしい
ゴマが挟まってるのは恥ずかしいことだ
髭が伸びてると清潔感に欠ける

などなど

誰かがバカにされているのを見て嫌悪感を持ったのでしょう

これらの考えがいつの間にか信念となり自分の中で影響力を増し
鏡をみた時の自分の行動につながっていたのだと思います。

自分が何か行動を取るまでに起こっていること

例えば「我輩は空腹なり」と、人としての根源的欲求の発生から
実際に食物を口にするという行動までの間を超スローモーションで振り返ると

”今日の定食(献立)は何かな〜?”
”この後予定があるから控えめにしておこう”
”今日は頑張ったから沢山食べたい” ”ダイエット中だしな〜”
などなど

今回は空腹からの振り返りでしたが、
冷静に深呼吸した後だと自分が何らかの行動を起こす前には
様々な様相でなんらかの考えや葛藤が自分の中にあった事に気付けます。

この様な「考え」はそれまでの自分の経験が大きく影響しているのは明白ですが


ダイエット中なのに「どか食いしたい」とか
自分のチャレンジに誰も応援してくれないんじゃないか

といった感じで

意図しないタイミングで自分の好まない考えがやってくるのは困りものですよね。

月収500万円と書き出し毎日拝んでは声に出して読み上げていました。

「あなたは探究心が旺盛ですね」と人から言われたことがあります
今でも知的好奇心を満たすために多くの時間と費用を費やしてますが

イケイケだったある時期に自己啓発にはまりました。
何百冊という本を買いあさり、重低音轟くセミナーに参加したこともあります。

当時の私が学んだものが主張していたこと

目標設定が大事だ!紙にかきだせ!
アファメーションだ!計画だ!
決断だ!積極的心構えが大事なんだ!

ってのをよく目にしておりました。

本を読んでは毎日鼻息フンフンさせ周りに吹聴し
セミナーに行ってはあたかも自分が発想したかの様に言いふらす
そんな姿がアリアリと今でも思い出すことができます。

今振り返るとあの頃の自分は「俺は聖人君子だ」と真剣に思っていました。

おバカさんですよね〜

しまいには本を買っただけで「天才」になった気分に浸ってましたから

ただ行動量が十分ではなかったということを自覚するまでに時間を要したのはいうまでもありません。

自分が”おかしい人”だと認めたくありませんでした。

目標を紙に書き出し毎日読み上げる。
だけど
思った様に結果がでないと数日でやめる。

やり方がおかしいのだと他人のせいにし
自分の行動や振る舞いには注目せず

違う本やセミナーに参加しては

ちょっと試してまた別のやり方

目標は過去形で書く!
とか
現在形で書くのがいいんだ!

否定形の言葉は使ってはいけない!

などなど

非常に表面的な事に捉われていたと気づくのに
10年くらいの歳月と多額の勉強代を費やしてきました。

どんな要因であって自分のおかしな点を認めようとしなかったのか

私の場合はとても小さな規模ではありますが
10年以上続く会社を創業したり、会社を買ったり売ったり、
独立開業させたりとそれまでのいくつかの成功体験から
自分は間違いない!と強い信念を作り、それが邪魔をしていました。

それ以外にも要因があるとすれば

自己啓発に限らず、ドンナ学びでも深めていけば
「教えることが自分の学びになる。」ということを耳にします。

ここを勘違いして解釈していたことです。
いわゆる罠(ハマった事に気づくのが大変な落とし穴)になるなとも思いました。

教える側、伝える側になるときには(必ずしも講師である必要はなく友人関係に置いても)
自分が学んでいたときに「どんな教師や指導者を良しとしてきたか」を
しっかりと入念に確認しておけば障害となるか追い風となるか事前に知れます。

これは「モノゴトを教える人とは~~~な人でなければならない」の
~~~の部分を穴埋めすることで導き出すことができます。

これは自分の考えが出尽くすまでやった方がいいです。

もし、あなたが「モノゴトを教える人とは、どんな質問にも的確に答える人でなければならない」などと考えていたり
自分が学ぶ時の理想の教師像が「神格化された完璧な存在」であったならば

はじめから自分もそうであらなければならないといったようなプレッシャーを自分で自分にかけた
教え始めることをかんがえただけでも、なんらかの批判されている過度な被害妄想が始まったりと
はじめの一歩が中々踏めない状態に陥ったりすることがあります。

他にも「一回口にしたことは変えられない」
「コロコロ言うことが変わるやつは信用がおけん」などの信念があれば
失敗を認めず学びの過程で発した言動にすらそのすべての責任を負おうとし
嘘をつくつもりはなかったとしても、結果として嘘を重ねてしまっていた。

自分自身が他者に対し強い批判のパターンを持っていれば自らもその分だけ強く感じます。

結果として何も行動できない、挑戦することを極端に怖がる。

いろんな学びの場で知り合った方々からこの様なパターンが見つけられました。

恐怖を源泉に活動しても最終的に待ってるのは燃え尽き症候群

チャレンジの動機付けには大きく二つあります。

渇望や恐怖 などの満たされない思いを埋めようとするもの
充足や喜び などの満たされた思いをシェアしようとするもの

いわゆる経済的成功という観点においては
このどちらの動機でもそこへ到達することができます。

お金さえあれば世の中うまくいくとお考えの場合は別ですが
私が考える本当の豊かさとは心物の両面が満たされていることです。

失うことを恐れその穴埋めをしようと必死になり
あるときは満たされるかもしれませんが少しでも減ると
また、恐怖に苛まされるループです。

満たされた思いをシェアし続けるのは
そもそも減る(失う)という概念がないので
失敗さえも糧にしてず~っと増え続けていくループです。

もし、自分の行動の動機づけの根底にあるものが
恐怖や渇望であることに1ミクロンでも気づいたならば
今この時点から方向転換し始めることができます。

海外旅行に行って気づきました。

初めての海外旅行にシンガポールへ行きました
マリーナベイサンズの建築を始めていた頃でしょうか

当時口にすることができた英語は
YES、NO、HELLO、HOW ARE YOU、THANK YOU
もちろん相手は返事をしてくれますがさっぱり理解できない状態です。

でも、まぁなんとかなるだろうと訳のわからん自信だけはあります
とにかく歩き始め観光に夢中になってる間に自分の現在地がわからなくなりました。

地図は持っていましたが、よくよく見てみると地図の縮尺が大きすぎて
いわゆる路地と呼ばれる小道は削除されサッパリわからない状態です。

しかしホテルの名前は覚えていましたので道行く人に
「HELLO,CARLTON HOTEL」と声をかけては周りを指さしました。

私の目に映る限り相手の方は一生懸命何かを伝えようとしてくれています。

私はそれを受け取る(適切に解釈する)ことができません。

地図を差し出し教えてもらおうとしましたが
どーしても当時の私には相手の言っていることがわからなかったのです。

会話が途切れたところで THANK YOU とだけ伝え
その場を離れた時に私は途方に暮れました。スコシダケ

この時に目的地(目標)だけわかっていても、目的地(目標)を声に出して伝えても
自分の能力がその状況にはまらなければ、そこに到達できないことがあるということを知りました。

地図(教科書)があっても現在地が明確にできなければ
はじめの一歩を踏み出すことに逡巡してしまっていた自分が思い出されます。

結局この時はタクシーに乗ることを選択したのですが5分とかからずHOTELにつきました。

だからこそ、まずは自覚することから

私たちは鏡を見れば常にその時の「最高の自分」に自動修正してます。
これらの行動はすべてこれまでに築いてきた信念や習慣の集大成によるものでした。

すり傷などのケガを思い出してもわかるのですが
思考や行動だけでなく体にもその自動修正機能は備わっています。

これ見よがしに何かを指摘してわざわざ何かしなくても
私たちは「あるべき姿」に「自動修正してる」のです。

その為にはまず自覚する(鏡を見る)(現在地を知る)必要があります。

自分が思う自分の嫌な行動を見つけた時
どんな前提があって、どんな肯定的意図があってその行動をとったのか
そこを自覚しようとしないままに行動修正しようとしても反発が起こります。

たとえ親であっても、どんな正論であったとして
イキナリ命令のようなアドバイスをもらっても話を聞かないですよね
聞いたとしても煩わしいからその時だけ聞いたふりをするといったような。

しかしそのアドバイスの内容が自分で気づいた事だったとしたらどうでしょうか

今あなたは少し時間をとって考えてみることができます。

「とにかくやってみろ!」
どんなに尊敬する人のアドバイスであったとしても自分なりにしっくりきてなければ
兎に角やってみるのその「兎に角」がわからないんですよね。
やらないんじゃなくて、やれないんです。
自分にとっての「兎に角」は「とにかく」なんですから不一致が起こっています。

でも、「ああ、そういうことなんだ」と腑に落ちた後はどうでしょうか

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